first light
section 2
1
高地ゆえの乾いた風に砂埃が舞う。しかしそのはるか上空には、どこまでも深く青い空が広がっている。そして、その大地と空の間には、広大にして雄大なヒマラヤの山々の姿がある。
見慣れた景色だ。けれど、それともしばらくはお別れなのだろう。
ローツェは、忘れ物をしていないか今一度部屋を見渡した。五年間、はじめて人間として過ごした部屋だ。かつて教科書や衣類、日ごとに増える生活用品で満たされていたが、今は引っ越しの荷物を詰めた大きなダッフルバッグが二つあるだけで、がらんとしている。他の部屋でも、同じように慌ただしく荷物を運び出す姿が見えた。
今期の教育生たちは、無事に全員成人認定を受けて、卒業することとなった。進路が決まっている者はそこへ、まだの者は希望を聞いた上で、世界各地にある教育機関や山界組織の支部に一旦配属されることになっている。
部屋の確認が済むと、次は手荷物を再度確かめていく。卒業に合わせて作成してもらったパスポートは、山界用を示す型押しがされている。これもエベレストたちの交渉のたまものだと思うと、彼らが作り上げてきたものの大きさが垣間見えるようだった。
「ローツェ、荷造り終わった?」
ひょこっとヌプツェが顔を出した。彼は背中にリュックだけ背負っている。自分の荷物を運び出して、ポーターに預けてきたようだ。ポーターというのは人間で、荷運びを行う仕事だ。この地域に古くから住む民族の人々が担っていることが多く、今回のような荷運びや登山の荷物面のサポートなどを仕事のひとつとしている。
ヌプツェが頷くと、ローツェのダッフルバッグをひとつ、肩にかけて部屋を出ていった。それに続いて、ローツェも残ったもう一つのバッグを持って廊下に出た。
機関の広い庭には、他の卒業した山界たちの荷物がずらりと並んでいた。ポーターが何人も来ていて、荷運びの値段の交渉を行っている。機関から一番近い空港まで運んでもらい、進路先に送るのだ。
明るい日差しが降り注ぐ庭に出ると、ポーターたちがわっと集まって来た。
「あんたはなんだ?」
口々にそのように聞かれて、ローツェは目を白黒させた。
「名前を訊かれてるんだよ」
ヌプツェがそっと耳打ちしてくれる。まごつきながら自らの名を告げると、人々はまじまじとローツェを見た。これがあの、とか、興奮気味な声が聞こえてくる。
「みんな、ローツェがどんな姿なのか楽しみにしてたんだ」
山界は、人間化するとすぐ教育機関に収容される。人目にさらされることはほぼなく、人間化したという情報は山界にとって個人情報となっているため、伏せられている。この地域は教育機関と連携しているため、そういった個人情報が漏れることはすくない。
ただ、人の口に戸は立てられない。何かしらの情報は漏れてしまうようで、ローツェについても噂が流れていたようだ。
「女だって聞いてたな」
「もっと小さいとか」
あっけにとられていると、ポーターのひとりが笑いながら、ローツェの肩をたたいた。
「こんな別嬪があのローツェだっていうなら、俺は歓迎だね。なあヌプツェ」
「そうだね。ローツェは綺麗だから」
ヌプツェは、そのポーターににやりと笑いかけた。
「あなたがた、知り合いなんですか」
「これからぼくがお世話になる人なんだ。言っただろう、ぼくはここに残るって」
もともと、ヌプツェもローツェと同じ本部付きになる予定だった。マカルーの部下として働くはずだったのだ。しかしそれを蹴ってここに残ることに決めたと、先日聞かされたばかりだ。
「そうでしたか。ヌプツェは不愛想ですが、どうぞよろしくお願いします」
そう言って、ポーターの男性と握手を交わした。確かにこいつは不愛想だ、と彼は笑っている。
「不愛想は余計だよ。こんなに可愛いのに」
そう言って、愛想のない無表情でローツェを非難する。日常となったこのやりとりもしばらくできなくなるのだと思うと、すこし寂しい気持ちになった。
ヌプツェの雇い主だというポーターの男性に、ローツェは荷物を預けることにした。彼はヒマラヤで登山をサポートする人間の中でも上位にあたる立場だという。彼らをまとめる長のようなもので、仕事ができて仲間からの信頼も厚い。
ローツェのふたつのダッフルバッグの他にもいくつかバッグを背負い、仲間を連れて颯爽と歩いていくその背中は頼もしく、ローツェはほっと胸をなでおろした。
「心配したんですよ。本部の話を蹴るって言いだすから。けれど、彼なら大丈夫そうですね」
「へえ、心配してくれてたの?」
「もちろん。私の一番の友人の進路なんですから」
意外だったのか、ヌプツェの目が僅かにひらかれた。
「そっか」
ぽつりとこぼれた吐息のような声は、どこか嬉しそうな、寂しそうな音だった。けれど、次にはもういつもの淡々とした声音に戻っていた。
「そろそろ来るんじゃない?きみのいいひとが」
茶化すように言うと、ローツェはわずかに顔を赤くした。
「ええ。迎えに――」
言いかけて、庭の外が騒がしくなった。人々がその名を呼ぶ声も聞こえる。
「来たね」
庭の向こうに見えた人だかりの中、頭ひとつもふたつも抜きんでている人物がいた。ああして人々に囲まれていると、彼はやはり有名人なのだなとふと思う。
その人物、エベレストはローツェを見つけたとたん、ぱっと表情が変わった。向日葵が咲いているような、朗らかであたたかい笑顔だ。
「ローツェ!」
その嬉しさのにじんだ声が響き渡り、みんながローツェを振り向く。慌てていると、エベレストはローツェに駆け寄り、きつく抱きしめた。
その熱々な様子を見て、そこにいたみんながはやし立てる。
「ちょっと、みんなが見てますって!」
「もう大丈夫。誰に知られたって平気だよ」
ほら、とエベレストはローツェとともにみんなに向き直った。山界も人間も一緒になって、二人を祝福してくれていた。誰も二人の関係を意外に思うこともなかったようで、まあそうだよなあ、とか、お似合いだよなという明るい声も聞こえる。それを聞いて、ローツェはすこし安堵した。世間にどのように受け止められるか、気になっていたのだ。
エベレストは再びローツェに向き合う。
「ローツェ、迎えに来たよ。私と一緒に来てくれるかい」
「は、はい」
あらためて問われ、ローツェは差し出されたエベレストの手をとった。場は最高潮に盛り上がり、まるで騎士と姫のようなやりとりに、はやし立てる声が止まらない。どこから調達してきたのか花びらまで撒かれて、嬉しいやら恥ずかしいやらで、ローツェの頬は真っ赤になっていた。
ヘリは、機関の近隣につくられたヘリポートに停まっていた。日常生活用としては使われておらず、緊急時にのみ使用される。ただ、エベレストはローツェのもとに通う際、いつもヘリでここまで来ていたのだ。
「職権乱用ですね」
「まあそう言わずに。じゃなきゃ、一年に一度だって通えなかったかもしれないんだよ」
エベレストの山体に向かう山道は、基本的には徒歩となる。トレッキングルートとしても人気だが、往復に一週間以上はかかってしまう。教育機関はその街道のすこしはずれにあり、代表としてのスケジュールが詰まっているエベレストでは、とても歩いてくることはできなかっただろう。
「ローツェは寂しがりやだからね。年に一度なんて、とても待ちきれなかったんじゃないかな」
ヌプツェが茶化すように言う。それを聞いて、ローツェはいつものように怒ると思っていた。しかし、その代わりに、手をとり、ローツェはそっとヌプツェの手を包み込んだ。ローツェの手はヌプツェより一回り大きく、すっぽりと手がおさまってしまった。
ローツェは言葉を探すようにして、口をひらいた。
「ヌプツェ。この五年間、ありがとうございました」
突然のことにあっけにとられて、ヌプツェは声が出なかった。ローツェは続ける。
「あなたのおかげで、私はここまで来られました。サガルマータとのことも、あなたがいなければ、きっとうまくいかいなかった」
人間化はヌプツェの方が早かった。本当なら一年先輩のはずだったけれど、ローツェの目覚めを待って、エベレストの来られない間世話をしてくれていたのだという。
思えば、どうして自分のまわりには、こうも優しい者がたくさんいるのだろう。自分がその優しさを受ける価値があるのかどうか、ローツェにはまだわからない。
「あなたがここで頑張るというなら、私も私の場所で努力します。けれど、あなたをいつも、大切な友として想っていますから」
ぎゅっと握った手を、ヌプツェも優しく握り返す。
「うん。ローツェも、がんばってね」
そっけないヌプツェは、こんなときでも相変わらずだ。彼はこれからここで、人間と共にこのヒマラヤを守るために奔走する。そしてローツェは山界本部で、ヌプツェたち在野の山界の生活を守る仕事をする。
もう今までのように、毎日会うことはできない。五年間の日々が、脳裏をさっと駆け抜ける。
「またね」
ヌプツェはそう言うと、やわらかく微笑んだ。
ヘリのローターが回り始めて、周囲の砂を巻き上げていく。機関の建物を背にして、ヌプツェが遠くから見送ってくれているのが見えた。
やがてふわりと離陸し、目線がどんどん高くなっていく。ヘリの巻き起こす風に髪を躍らせながら、ヌプツェがいつまでも手を振ってくれていた。あのすこしにくらしい、ローツェをからかうようなヌプツェの笑みを思い出すと、つい口元がゆるむ。
「ありがとう」
彼にまた会えるのは、いつになるだろう。次に会う時までに、ヌプツェに良い姿を見せられるようになっているだろうか。
ヘリは次々と山を越えていき、ヌプツェの姿はもう見えなくなっていた。永遠に続くような山と谷を交互に通り過ぎ、やがて大きな大きな街が見えてきた。
opacity: 1
...to be continued