first light

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 明るい。
それが太陽から降り注ぐ陽射しなのだと知るのは、まだもう少し先だった。そればかりか、言葉はおろか、自分が何なのかさえ、ローツェはまだ知らなかった。
「ローツェ」
わずかに震える声が、ローツェが横たわるベッドの端から聞こえてきた。彼を心配するような、それでいて嬉しくてたまらないような。そんな感情がごちゃまぜになった表情をしている体格の良い青年がそこにいた。その青年、エベレストの方にゆっくりと顔を向けて、ローツェは初めて彼を見た。
 ローツェと同じ日輪のような淡い金色の瞳が、日差しを受けてきらきらと輝いている。
「ああ、よかった。聞こえているね」
 エベレストは、ローツェが反応を返してくれたことにほっとしたのか、緊張気味だった顔をほころばせた。
「今はまだ何もわからないだろうけど、焦らなくていいから。きみにはこれから、いくらでも時間があるのだから」
エベレストはそう言うと、ローツェのやわらかく波打った深い栗色の髪をゆっくりと撫でた。優しく、優しく、髪のひとすじも余さず愛しむように。
「会えて、嬉しい。待っていたんだよ。この時をずっと」
 薄いレースのカーテンを透かして届く木漏れ日が、ローツェの顔に穏やかな影を躍らせている。その影にまぎれるようにして、エベレストはローツェの額に唇を寄せ、キスをひとつ落とした。

  

 春の日差しは、いつの間にか夏のそれに変わろうとしている。南アジアはヒマラヤの森林限界より下った山間にあるこの施設で、ローツェは初めての夏を迎えようとしていた。施設の周りにはシャクナゲが咲き誇り、木々は緑に溢れんばかりだ。けれど、その背後には真白の雪を頂くヒマラヤの山々が迫っていて、標高差が著しいことが見て取れた。
「あれが自分……なのか」
 白く輝く山々を窓の向こうに見ながら、ローツェはぽつりとつぶやいた。山々の間、はるか遠くにひときわ高く見える頂がある。その巨大なピラミッドを思わせるエベレストの山体からは、白い雲が長く尾を引いてたなびいている。それよりもやや低く、しかし天を衝くようなローツェの頂は、そのすぐそばに見えていた。
 まだ実感は湧かないのに、あれが自分なのだとわかる。この不思議な感覚には、しょうじき言ってまだ慣れない。
 山が人の姿を得るようになって、はやくも二十年が経とうとしていた。世界最高峰のエベレストが人間の姿で現れたあの日から、彼に続くように名のある山たちが次々に人間化しはじめたことで、世界は驚愕とともに彼らを受け入れることとなった。
 彼らは『山界』と呼ばれ、外見や身体機能は人間とうりふたつだ。しかしその本体となるものは山そのものであり、山としての山体、人間としての人間体のふたつの体をもっている。山体と人間体はどういうわけか繋がっていて、すくなからず双方の影響を受けるという。
 ローツェは自分の手のひらを見て、意識を向ける。それをとおして、山体である自分自身を感じることができた。山体の何もかもを感じ取れるわけではないが、窓の向こうに見える鋭い頂が、自分であるという感覚くらいはあった。
「ローツェ」
 呼ばれて振り向くと、廊下の向こうからヌプツェが手を挙げているのが見えた。小柄な山界で、背中まであるさらりとした髪を三つ編みにして、シニヨンのようにまとめている。山界は誰もがおしなべて髪が長く、腰まで届く長さの者もすくなくない。かといって切ってしまうと山体に影響が出てしまうことがわかっているため、日常生活の邪魔にならないようにまとめている者がほとんどだ。
 ローツェが手を振り返したのを確認すると、彼は口を動かすだけで要件を伝えてきた。廊下には他にも山界が何人かいたためだ。
「エ、ベ、レ、ス、ト」
ああ、と察して、ローツェは心が浮き立つのを感じた。三週間ぶりだ。
「すぐ行くと、伝えてください」
同じように口の動きだけで返事をすると、ローツェは用事を済ませるために、ヌプツェとは反対方向に廊下を歩き出した。人間としての生活に必要な必須科目のレポートを、担当の教員に提出するためだった。
 山の人間化がはじまって二十年。この間に、山界はかなりの数にのぼるようになってきていた。十年前にエベレストを筆頭とした山界組織が発足し、山界たちをとりまとめて人間社会で生活できるようにあらゆる交渉を行っているが、そもそも人間のつくった社会で生きていくためには、相応の知識と教養が必要だった。
 そうして創設されたのが、ローツェたちの所属する教育機関だった。各大陸の地域ごとに設置され、人間化したばかりでまだ意識も持たない山界を受け入れ、人として生活できるようになるまで教育を施す。意識のない期間を除き、教育を受けるのは五年間。その間に日常生活のあれこれや、人間の一般常識、仕事などについて学ぶ。人間の教育と比べると非常に短い期間だが、人間化した時点で人間の成人に相当する体であるため、教育開始とともに知識を詰め込まれることになる。そのため、みな必死になって日々学んでいるのだった。
 ローツェは用事を済ませると、その足で一旦自室に戻る。といっても、そこはヌプツェとの共同生活の部屋でもあった。教育機関では、人間生活に慣れるために二人一部屋で五年間過ごすことになっている。ヌプツェはローツェに連なる一座で、彼らはかのエベレスト山群の一員でもあった。
 きちんと片付けられた洗面台の鏡で、ローツェは自分の今の見目を確認する。先ほどまでの実習で、ていねいに結い上げた髪はいくらか乱れていた。
「ちょっと直すか……いちおう」
 誰に言うでもなく、ひとりごちる。鏡には、美形と呼ぶにふさわしい整った顔立ちの青年が映っている。目じりはすこしつりあがっているものの、涼やかな目線には気高さが感じられた。深い栗色の髪はやわらかく波打って、背中を隠すようにゆるやかに広がっている。今は高い位置で結い上げられて、ポニーテールになっていた。
 いちおう、と言いながら髪をほどこうとすると、背後から突然声をかけられた。
「照れ隠しかい?可愛いね、ローツェは」
 ひ、と変な声が出てしまった。咄嗟に口を覆うと、微笑みながら部屋の壁にもたれる青年と鏡の中で目が合った。

 一八〇センチを超えるローツェよりもいくらか背が高く、体格も良い。ローツェと似た栗色の髪は肩口まであり、それを後ろでひとつに束ねて結んでいる。後頭部の半分からうなじのあたりまで刈上げのようになっていて、どこか飄々とした雰囲気を漂わせていた。
 先ほどヌプツェがローツェを呼んだのは、このエベレストが来たからだった。
 ローツェの驚きぶりを見て、エベレストは金色の瞳をやわらかく細める。サガルマータ、とローツェはうらめしい低い声で彼の持つもう一つの名を呼んだ。
「部屋に入るなら、ちゃんとノックなり声をかけるなりしてください。マナーでしょう」
 すると、彼はにこにこして言った。
「ヌプツェが、ローツェは用事を済ませたらきっと部屋に戻るだろうって言うからさ。だから先に来て待たせてもらおうかと思ったんだ。そしたら、もうきみが帰ってきてたんだもの」
 ヌプツェめ……と口の中でちいさくつぶやく。ヌプツェは無口で愛想は無いのに、そういうことへの気がよく回る。ローツェは鏡から顔を離して、あっさり開き直って言った。
「客人が来るというのに、乱れた髪で会うわけにもいかないでしょう。さっきまで実技演習だったんですから」
 さきほどまで受けていた実習では砂埃の舞う場所にいたので、髪はすこしほこりっぽくなってしまっていた。高く結い上げた髪をほどき、櫛を通していく。
 エベレストは髪を整えているローツェの方にゆっくりと近づいてきた。
「実技演習って、どんなことしてるんだい?」
「日によって違いますが、今日は土木技術の演習でした」
「土木技術……それ、人間生活に必要なの?」
エベレストは肩透かしをくらったように、若干声がうわずっている。職探しに有利なんですって、と、ローツェは何でもない事のように言った。
「一昨日は看護の演習でした。これは、山界個人の特性を引き出すためにも有効なのだそうです。人間社会に出るまで五年間しか猶予がありませんから、何が自分に向いているか、少しでも理解の助けになればということだそうです」
 あなたの部下のマカルーが主導したんでしょう、とローツェは髪をポニーテールからハーフアップに結いなおしながら言う。つんとしたローツェの顔を眺めながら、エベレストは穏やかに尋ねた。
「やりたいことは見つかったかい」
「まだわかりません。こうして学び始めて、まだ一年も経っていないんですから」
 ローツェは教育機関に入ってまだ一年目だ。人間化したのは二年前だが、一年間は意識が曖昧であまり記憶はない。
「そっか、まだ一年か。きみが人間化したばかりの頃が懐かしいよ。意識がないきみが、反応を返してくれた時は嬉しかったなあ……」
「まったく、いつの話をしてるんですか」
 意識の無い時の話をされて、ローツェは顔を赤くした。人間でいう、赤ん坊の頃の思い出話をされるようなものだ。当時エベレストが足繫く通って、意識の無いローツェに話しかけ続けてくれていたらしいのだが、ぼんやりした記憶以外、ほとんど何も覚えていなかった。
 しかし、エベレストがどうしてこんなに自分に構うのかわからなかった。彼は山界をとりまとめる代表を務めている。山界たちが人間社会で生きていけるように整備するため、毎日のように世界中を飛び回って、人間との交渉に奔走しているのだ。そんな多忙の中、ほんのすこしの時間を見つけてはわざわざ自分に会いに来る理由が、ローツェにはわからなかった。
結い終わった髪を鏡で確認しながら、すこしつっけんどんになって言う。
「あなたは忙しいでしょう。私なんかに構っていていいのですか」
 しかし、それが本心ではないのは自覚している。本当は、会いに来てくれて嬉しいのだが、自分はそういうふうにしかものが言えないのだと歯がゆく思う。
「ローツェに会うこと以外で、私に楽しみは無いからね。私の唯一の癒しのひとときなんだよ」
 さらりと言ってのけられて、ローツェはまた顔が赤くなるのを感じた。エベレストはいつもそうだ。素直になれないローツェとは正反対で、なんでも素直に伝えてくるのだ。
 今の顔を見られたくなくて、ああそうですか、とエベレストのそばを足早に通り過ぎる。部屋に戻り、備え付けのキッチンに入るとポットを手に取った。
「紅茶で良いですか」
「うん」
 ローツェのつれない態度にもいっこうに頓着せず、大型犬のようなほがらかさでローツェの隣に立って、紅茶の缶を渡してくる。代表の予定が詰まっていて時間がないからだろう、エベレストはほんのすこしでも多くローツェとふれあえるようにくっついてくるのだ。部屋に足を運んだのだって、きっと待ちきれなかったからだろう。
 そんなエベレストはどこか可愛らしくて、つい微笑ましく思ってしまう。しかしその感情とは裏腹に自分の態度はあまりにも冷たい。それがいつもローツェをじわじわと苦しめるのだ。
 素直になれない自分を呪い、小さく鼻でため息をつく。そんなローツェを見逃さず、エベレストは優しく囁いた。
「きみはそれでいいんだよ。きみは、自分の思うままに生きてくれればそれでいいんだから」
 その言葉にはっとして振り向いた。エベレストはその瞳をわずかに細めて、ローツェを愛おしげに見つめている。
 エベレストはちゃんと分かっているのだ。ローツェが冷たくするのは、自分への好意の裏返しだということを。素直になれないローツェごと、大切に思ってくれているのだ。
それを見透かされていることがあまりにも恥ずかしく、そして同時に嬉しかった。
「……この三週間、どんなことをしていたんですか」
 顔は、また赤くなっている。それを見られているのを感じるが、どこか心地よくもあった。エベレストの体温をすぐそばで感じながら、ほんのすこしでも彼に好意を返せるようにと、できるだけやわらかな声を意識した。


「きみと過ごすと、なんでもあっという間に過ぎてしまうよ」
二人で紅茶を淹れて、ヌプツェがおあつらえ向きに置いておいてくれたクッキーをつまみながら、他愛もない話をした。二時間がほんの一瞬に感じられたのは、ローツェとて同じだった。
帰りたくないなあ、と惜しむエベレストの背中をとんと押す。
「駄々をこねないでください。あなたの部下たちが困るでしょう」
「だって、次いつ来られるかわからないんだよ」
 これまでも、数週間から一か月、長いと二か月空いたこともある。来られる日は直前までわからず、こうして突然の来訪になることも珍しくない。エベレストだとわかれば他の山界に取り囲まれるのは目に見えているので、いつも裏口からこっそり入るのが常だ。この施設の職員たちもそれをよく承知しているので、騒ぎ立てたりはしない。お忍びの逢瀬は、こうしてかろうじて叶っているのだ。
 またしばらく会えないのか、と思うと、さきほどまでの楽しかった気持ちがしぼんでいくような気がする。それを振り払うように、ローツェはほんの少し素直になってみることにした。
「……私だって、寂しいんですから」
ぽそりとエベレストの広い背中に向かってつぶやくと、彼ははっとしてわずかに息をのんだ。それから、うん、と静かに頷いた。
「また、会いに来てくださいね」
「必ず。必ず会いに行くから」
くるりと振り向いたエベレストは、一瞬ためらうように止まり、それからローツェをそっと抱きしめた。
 初めての抱擁に、ローツェは頭が真っ白になる。今まで肩や背中に触れたりする程度のスキンシップはあったが、抱きしめられたのはこれが初めてだった。
 突然のことに何も言えないでいると、やがてエベレストはその腕をほどいた。
「ねえ。次に会ったときはもっと、触れてもいいかい」
 何かを必死に我慢するような低い声音が、耳に残った。聴きなれない声音に知らずどくどくと血が巡り、時間がひどく緩やかに感じられる。
 「は……、はい」
 口にできたのはそれが精一杯だった。緊張してしまって、しょうじき、何に対してはいと答えたのかわからなかった。
 ローツェのその返答だけ聞くと、エベレストはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。これで次会う時まで、頑張れるよ」
 いつもの朗らかな声に戻り、ローツェとの別れを惜しみながらエベレストは帰っていった。裏口まで見送ったローツェはひとり取り残され、午後の静かな木々のざわめきの中で、エベレストの言葉を反芻していた。


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慌ただしい日々が飛ぶように過ぎていく。講義、演習、と繰り返され、課題をこなし、少しずつ人間の常識や日常が体に染みついていく。一日が終わる頃にはくたくたで、人間って大変なんだな、というのが大方の山界の感想だ。ローツェもそれにもれず今日もくたくたになったが、その足取りは軽かった。
 なぜなら、エベレストからの手紙が届いていると職員から聞かされていたからだ。教育生の身分のローツェにはまだ通信手段が無く、エベレストとのやりとりは主に手紙だった。
「エベレストから、携帯電話を持たないかって言われてたんだろう。受け取ったらよかったのに」
 ローツェの隣を歩くヌプツェは、長身のローツェを見上げるかたちになる。七千メートル級の山界にしては小柄だった。
「私にはまだ分不相応ですよ。今はまだ先達の山界たちや、協力的な人間たちに養ってもらっている身ですから。教育機関を出て自立できるようになるまでは、手紙でいいんです」
 ローツェの答えに、まじめだね、とヌプツェは肩をすくめた。携帯電話がようやく小型化され、それが先進国内でひろく普及しはじめたところだ。エベレストたち上層部は持ち歩いているが、まだまだ高価なしろものだった。
 それでもたまに、エベレストの声が聞きたくてたまらないときはある。そういうときはひたすらに我慢するほかなく、ローツェは早く自立したいと思うのだった。
 事務職員にこっそり声をかけて、手紙を受け取る。二人の関係を知るのは機関の職員とヌプツェくらいだ。彼らは秘密を漏らすことはなく、ただ見守り続けてくれている。
 部屋に戻るみちすがら、ローツェは手紙をはやく読みたくてそわそわしていた。
「手紙はどこにもいかないよ」
 ローツェの挙動を見て、くす、とヌプツェが笑いかける。そわそわしていたのを知られてしまい、ローツェは顔を赤くした。
 ヌプツェは時々こうしてちょっかいをかけてくるが、エベレストが来たときは伝言役になったり、気を利かせて部屋を出たり、それとなくお菓子を用意してくれたりする。だから多少ちょっかいをかけられても、ローツェは怒るようなことはしなかった。なんだかんだで、ヌプツェには感謝しているからだ。
 部屋に戻ると、ヌプツェはさっさと部屋着に着替えて、本を読み始めてしまった。気にせず手紙を読んでね、とでも言わんばかりだ。いつものヌプツェの様子に苦笑しつつ、ローツェは自分のベッドに腰かけて手紙をながめた。
 どこで買ったのか、クマの可愛らしいシールで封がされていて、思わず吹き出してしまう。封をひらくと、中には便箋のほかに写真が二枚同封されていた。
 写真には、満天の夜空にひるがえるオーロラが写っていた。もう一枚は、エスキモーのような毛皮を着たエベレストと現地人らしい人間、犬ぞりの犬たちが写っており、アラスカに行っていたことがわかる。
 端麗なエベレストの手書き文字に感心してから、読み始めた。

『ローツェへ。
この前会ったのが随分前に感じられる。まだ一週間しか経ってないのに、もう一か月も二か月も前のことのような気がするよ。またはやくきみに会いたい。

 私はあれから西に向かって、西欧・東欧支部の設立に立ち会ってきたよ。エルブルスとモンブランの諍いがひと段落して、なんとかそれぞれの支部長になってもらえた。エルブルスったらモンブランが支部長なんて認めないっていうし、モンブランも引かないからさ。でもどうにか形にはなったよ。
 同封した写真はローツェならわかるかな。アラスカに行って、北米支部の様子を見に行ったときの写真だよ。犬ぞりの犬たちが可愛くって!それにオーロラが本当に綺麗だった。ローツェにも見せたかったな。北米支部にはまだいくつか問題があるから、しばらく通うことになると思う。』
 便箋のはしに犬らしきイラストが添えられていた。文字は綺麗なのに絵はまるでだめなエベレストの描いた犬は、タコとヘリコプターを混ぜたような珍妙な犬だった。
 手紙は続く。
『次にそちらに行くまで、たぶんあと二週間はかかると思う。アジアがとりあえず落ち着いているから、今のうちにそれ以外の地域を見に行かないといけなくて。以前のようになかなか会いに行けなくて、ごめんよ。寂しい思いをさせるだろうけど、もう少し待っていてほしい。

 きみを思わない日はない。はやく会いに行けるように、私も頑張るよ。

 サガルマータ 』

 読み終えて、ローツェは『サガルマータ』の文字をなぞった。山界の中ではローツェだけが彼のことをそう呼ぶ。その『世界の頂上』という名にふさわしく、エベレストは世界中を見て回り、山界たちをまとめるべく日々奔走しているのだ。

 その合間にほんのひとときでも思い出してもらえていることが、ささやかなローツェの慰みになっていた。手紙だって書く時間が惜しいだろう。携帯電話を使って電話したり、メールにした方がきっと楽なはずだ。けれど、手紙でいいと言い張るローツェのわがままにエベレストは嫌な顔ひとつせず、教育機関から出られないローツェを楽しませる工夫をたくさん入れてくれる。
 会えなくても、こうして大切にしてくれるのだ。それがあるから待ち続けられる。
 しかし同時に、どうしてこんなにも大切にしてくれるのだろう、という疑問は、このあたたかな感情の中にある、ほんのすこし冷たい部分でもあった。

ローツェは、世界中でも十四座しかない八千メートル峰のひとつだ。エベレスト、K2、カンチェンジュンガと数えて第四位、つまり世界で四番目に高い山ということになる。
 八千メートル峰は、基本的にそれ単体で山群を形成している場合が多い。K2は峰を持たない単独峰だが、それ以外はそれぞれに峰を持ち、雄大な景観をつくりだしている。そんな中ローツェだけは、世界第四位の肩書を持ちながら独立した山群を持たない。エベレストを主峰とするエベレスト山群に属し、エベレストと連なり、その山体を共有している。
 ローツェが不安に思うのは、まさにそのせいだった。
 近しいから。自らと山体を共有する相手だから。だから、エベレストは自分を特別視して、他の山界にはない特別待遇を与えてくれているのではないか。
 大切にされている自覚はある。でも、人間化したばかりで何の役にも立たない自分をこれほど大事にする理由が、ローツェにはわからなかったのだ。
 自分は、エベレストにとってなにか利益になっているのだろうか。なにか、役に立てているのだろうか。
 そんな未熟な自分を歯がゆく思うと同時に、どこか不安な気持ちもあるのだった。
 


「あっ、サガルマータ」
昼。ローツェは、一年先輩のアマダブラムと昼食をとっていた。食堂に設置されているテレビからニュースが流れていて、エベレストが北米支部の支部長に就任した女性態の山界とともに会見をひらいている場面が映っている。
 ニュースのテロップには、その山界の名はデナリとある。腰まであるさらりとした橙色の髪をきゅっとひとつに結び、その目は若干つり上がっていて、どこかきつい印象を受ける。エベレストがほがらかに微笑んでいるのとは対照的にデナリはぶすっとしていたが、そのまま二人は握手を交わした。
「たしか、以前はローガンが支部長でしたよね」
 ローガンといえば、猫背気味の、すこし暗い印象を受ける男性態の山界だった。カナダの最高峰で、北米大陸第二位の肩書をもっていた。
隣で食事していたアマダブラムが、あごに手をそえながら言う。
「あれは仮の支部長だったのだよ。デナリ嬢が成人認定を受けたら席を譲ることになっていたようだ」
「デナリといえば、北米大陸最高峰でしたね。人間化したとは聞いていましたが、認定を受けられる年だったとは」
 山界は、人間化して意識を得、それから最初の二年間までを幼年期とよび、三年目からは少年期、五年目以降は成人とされる。成人と認められるには五年間の教育が必要で、機関を卒業すると同時に成人認定をもらうことができる。そうすれば、人間社会に出て、生きていくことができるようになるのだ。
「そう。一説によるとやや問題児で、とくに母上とは折り合いがよろしくないのではなかったかな」
 エベレストを母上と呼ぶこのアマダブラムは、エベレスト山群のすぐそばに聳える山の山界だ。意識が芽生えたときからデザインに強い興味を持ち、今ではすでにアパレルデザインの仕事を志している。オペラのように朗々とした声で話すのが癖で、ちょっと変わった山界だった。
「よろしくない、とは?」
「母上が地上から三千メートル強なのに対し、デナリ嬢の比高は五千メートルを超える。だのに世界最高峰は母上だと言うから、それが気に入らないのだ」
 屁理屈ですねえとつぶやきながらも、成人認定を受け、エベレストとともに仕事をするデナリを、どこかうらやましい気持ちで眺めていた。


 アラスカからの便りに返事を出してから一週間後、エベレストからの返事が来た。その便りには、三日後にこちらに来られるという旨が書かれていた。
 三日後ということは、講義は休みだ。一日休暇になっている。
 それに、エベレストもその日は一日休みなのだという。今まで二、三時間一緒にいられたらそれで僥倖、という逢瀬だったこともあり、エベレストも楽しみにしていることが手紙から読み取れた。
「一日……」
 何をしよう。それを考えるだけでそわそわして、落ち着かない。初めて一日一緒にいられるのだ。
ふと、もっと触れてもいいかい、というエベレストの低く囁かれた声を思い出し、ローツェは顔が真っ赤になった。
「百面相にもほどがあるよ」
ヌプツェの無表情がぬっと目の前に現れて、ローツェは飛び上がった。
「ぬっ、ヌプツェ!驚かさないでください!」
「きみが真っ青になったり真っ赤になったりしてるから、心配したんじゃないか」
「あ、ありがとうございます……?」
 まったく、とつぶやきながら、ヌプツェはローツェの手に握られた手紙を見た。
「エベレスト?」
 いたわるような、優しい声だった。
「はい。三日後に来るそうです。一日休みだとかで、会いたいと」
「三日後?ってことは、お祭りの日じゃないか」
「え」
 部屋にかけられていたカレンダーを見ると、確かに祭りの日だった。この地域特有の人間の祭りで、山の神々に感謝を捧げるためのものとされている。山界が現れるより古くから続くもので、神々を祀る寺院は華やかに彩られ、家の窓から撒かれた花びらが空を舞い、露店も多く出て人々で賑わう。
 機関に入っている山界たちもこの日は出かけても良く、みんなが楽しみにしている日でもあった。
「祭りの日を忘れるなんて、ほんとローツェはエベレストのことしか考えてないね」
 そう言われると恥ずかしくて、ローツェはまた真っ赤になってしまった。
「エベレストと行ってきたらどう?二人で出かけたことないでしょ」
ローツェは頬を染めながらも、その手があったかと手をたたいた。



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「お祭りがあるのかい?」
 三日後。約束の通りエベレストが裏口から現れて、迎えに出たローツェと連れ立って廊下を歩きながら、今日の予定について話していた。機関にいるほとんどの山界は祭りにでかけてしまっていて、施設内はがらんとしている。すれ違う職員がたまにいるくらいで、エベレストも普通に施設内を歩くことができた。
 エベレストの問いかけにうんと頷き、祭りの概要を説明してから、ローツェが提案した。
「お祭りには、露店も出ますよ。そこで何か食べませんか」
 エベレストはすこし考えたふうになったが、そうしよう、と言って携帯電話を取り出して、誰かに電話をかけ始めた。
「私だよ。……うん、ローツェとお祭りに行くことになってね。そう、頼めるかい?……うん、ありがとう」
電話を終えるとエベレストはローツェを見て朗らかに微笑み、彼の手をとり、その指をからませた。
「じゃあ、行こうか」

 どきどきして、景色が目に入ってこない。エベレストと手を繋いでいることが、こんなにも緊張するなんて。つい、じわりと浮かぶ手汗を意識してしまう。けれどエベレストもどこかそわそわしているように見えた。
「ああ、嬉しいなあ」
 エベレストはくすぐったそうにはにかんでいる。ちょっと緊張しちゃうよ、とローツェに微笑みかける。
「あなたが緊張してどうするんですか。私なんか、こんなに――」
 言いかけて、エベレストがローツェの肩を抱き寄せて、心臓のあたりに耳を押し当ててきた。咄嗟のことにローツェが反応する隙もなく、ああ本当だ、とエベレストは嬉しそうに言った。
「ばくばく言ってる」
 声にならない声をあげそうになり、ローツェはなんとか踏みとどまった。代わりに言葉を無くしたように、口をぱくぱくと動かしている。
「……っあなた」
 今までになく真っ赤になってしまったローツェを見て、エベレストが朗らかに笑った。
「これじゃあ、先が思いやられるなあ」
 もっときみに触れたかったけれど、と、いたずらっぽく目を細めた。
「ふ、触れるもなにも、そんな突然来られたら誰だってこうなります!」
「でもね、私が触れたいっていうのは、もっときみの深いところなんだよ」
 とん、と優しく胸に指を立てられて、ローツェはびくりと肩を揺らした。
「すこしずつ、慣れていけばいいから」
「……さっき緊張してるって言ったのは、嘘だったんですか」
 緊張しちゃうね、と言っていたエベレストを思い出して、うらめしそうにローツェは睨んだ。しかし、真っ赤に紅潮した顔ですごまれても迫力はなかった。
「嘘じゃないよ。私だって緊張してたんだから」
 ふいにエベレストは声を低くして、ローツェの耳元で囁いた。
「我慢できるか、自信がなくて」
 なにを、という部分が、いつもエベレストは抜けている。あえてそうして自分をもてあそんでいるのかと、ローツェは次第にいらいらしてきた。
「あなたね、私が人間化したばかりで何も知らないからって、そうして遊ぶのはやめてください!その言葉に私がどれほど振り回されているか、あなたは知らないんだ」
 うつむいてしまったので、語尾はしぼんでしまった。会えない間の寂しさや、エベレストの言葉や行動に一喜一憂する日々が思い出される。
「そりゃ、あなたは私よりも二十年も先輩ですよ。代表として場数を踏んできたでしょうし、私なんて、人間の赤子のようにしか思わないんでしょう」
 ああ、嫌われただろうなと、どこか遠いことのようにローツェは思った。こんなことを言うつもりはなかったのに。素直になれないくせにこういうことは言えてしまう自分がどうしようもないなと、自己嫌悪に陥りそうになった時。
「ローツェ。すまなかった」
 気落ちしたエベレストの声にはっと顔を上げると、彼は心底すまなさそうな顔でローツェを見つめていた。太い眉を下げて肩を落としている様は、さながら怒られてしょぼくれた大型犬のようだった。
「そんなつもりはなかったんだ。ただ……ただ、きみに受け入れてもらえたのが嬉しくて、調子に乗ってしまっていた」
 本当にすまない、と、大きな体を屈めて頭を下げた。
「きみに嫌われたら私、ほんとうに生きていけないんだ。きみしかいない。私は、きみのためにこの世界を――」
 言いかけて、エベレストは、しまった、という顔をした。その変わりようがなんだかとても間抜けに見えて、ローツェは思わず吹き出してしまった。
「この世界を、何なんですか」
 これまでの仕返しとばかりに、ローツェはエベレストににじり寄る。あ、わ、と言葉を無くしておろおろするエベレストが可笑しくて、これまでの場慣れしたイメージがどこかにいってしまうようだった。
 この世界を、の続きがなんなのか、エベレストは答えようとしない。というより、まったくの失言だったとばかりに戸惑っているようだった。
 ローツェは意地悪な顔をして、たたみかける。
「ええそうですよね、私に言えないことたくさんしてるんでしょうね」
「あ、違う…違うんだ」
「わざわざ言葉にして言わないんですから。まだ幼年期の私にはきっと理解できないでしょう」
「ちがうよお……」
 ごめんローツェぇ、と泣きついてくるエベレストを見下ろすと、さっきまでのもやもやとした感情がどこかに流れていくような気がした。エベレストを想い、一喜一憂していた苦しい日々も。
 そうして残ったのは、やはり彼のことが好きだという気持ちだった。

 好き?

 機関で受けた感情の講義を思い出す。意識が芽生えた山界が初期に受けるもので、湧き上がってくる感情を制御するための講義だった。
 その中に、誰かを愛したときの感情のモデルの説明があった。当時は実感も何もなかったので受け流してしまったが、今になってそれが自分の心の動きとしてとらえられるようになっていた。
 ああ、これか。と、ローツェは自分の感情の高まりを感じて目を閉じた。心躍るような、あたたかいような。それを、目の前でしおしおになって情けない顔をしているエベレストに感じていた。
 少し前までの完璧なように見える彼とはかけ離れてしまったのに、それでもそう思える。むしろ、今のエベレストの方を好ましく思う自分がいた。
 閉じていた目をひらき、ローツェはひとつため息をついた。そのため息にびくりと揺れるエベレストに、微笑みながら手を差し出した。
「からかってしまってすみません。あなたにとって、先ほど言いかけたことは何か大切なことだったのでしょう」
 エベレストはう、と言いながら、うつむき加減にこくりと頷いた。この期に及んでも、言うつもりはなさそうだった。
「なら、今は追及はしません。でも約束してください。いつかそれを聞かせてくれるって。そうしたらこれまでのことは、許してあげます」
 エベレストにとって何か大切なことなら、いつか知りたい。世界の誰よりも何よりもローツェが大切と豪語しながらも、そのローツェにも言えない何か。
「その時がきたら必ず言う。約束するよ。どうか、これまでの私の言動を許してほしい。本当に、すまなかった」
 隠し事をされるのは釈然としないが、今はその約束で十分としようとローツェは諦めた。そして、ふたたび頭を下げるエベレストをなだめて、その手をとった。
「お祭り、行きましょう。私、あなたと出かけるのを楽しみにしていたんですよ」
「!」
 途端にぱあっと明るい顔に戻ったエベレストに、なんて現金な人なんだろうと思った。でも、それはローツェのことを大切に思うからこそ、エベレストもそれで一喜一憂してしまうのだろう。自分たちは、その点では同じなのかもしれない。
 好き、という感情をまだ持て余しながら、エベレストの大きく温かい手を握り返した。



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 祭りは賑わっていた。家々は花で飾られ、いつもなら砂でほこりっぽくなっている石畳の道まで花びらで彩られている。寺院に近づくにつれてそれは顕著になり、道の端には露店がずらりと並んで、信仰を持って詣でに来た者や観光客であふれていた。
「そんな恰好で大丈夫なんですか」
 ローツェは、その下手な有名人より有名な山界代表の顔を見た。エベレストはああ、と言って伊達眼鏡を顔から上げてみせた。
「これが意外に平気なんだよ。今までそんなに気づかれたことはないからね」
 なんでも、山界代表としての衣装を着ていないからだという。チベットやネパールの民族衣装を意識した詰襟のような白い長着に、深紅の重厚な上掛けを腰帯で締めている。報道や写真でよく見る華やかな彼の姿を思い出して、なるほど、と思う。
 今のエベレストの服装は、ベージュの薄手のセーターに黒いチノパンというラフないで立ちだった。いつもなら頭の後ろでひとつに結んで垂らしている髪も、同じ位置でくるりと輪をつくっていた。ぱっと見たところ、エベレストに似ていなくもないが、よくいる体格の良い山界という風情だ。
「それならいいのですが……」
 エベレストは、いわば美丈夫といえる顔立ちだった。ローツェも男性態ではあるがどこか女性的な美形なのに対し、彼は男性的な美形といえた。以前はそこまで意識していなかったのに、急にそれを意識している自分に気づいて、ローツェは咄嗟にエベレストから目線をそらした。
「とっ、とにかく、何か食べましょう。ほら、あれ」
「串焼きかい。美味しそうだね」
 香ばしく食欲をそそるにおいがあたりに満ちている。どうやら鶏肉を串に刺して焼いたもののようだ。白い煙を漂わせる露店を指さして、エベレストを連れていく。
「何本食べますか?」
「そうだなあ。お腹減ったし、私は三本にしようかな。ローツェは?」
「私も同じで」
 ローツェがお金を払おうとすると、エベレストがそれを止めて、自分の財布からお金を出した。
「これで」
 串焼きを六本受け取り、露店を出て近くの適当な階段の端に腰を下ろした。ローツェは少し居心地悪そうにエベレストを見た。
「私が連れ出したんですから、私が出しますよ」
「いいや。これでもみんなの代表してるんだから、これくらいなんともないよ」
 そう言って、ローツェに串焼きを渡した。いいにおいが鼻をくすぐり、お腹が鳴りそうになる。
「いただきます」
 どうぞ、とエベレストは微笑んでいる。食べるのを見られているというのは落ち着かないが、彼はとても嬉しそうだ。
「こうしてきみと街を歩いて、同じものを見て、食べたり話したりできるなんて、夢みたいだ。こんな日が来るなんて」
「おおげさですねえ」
 浮かれきったエベレストを苦笑しながら眺める。彼の表現は時にオーバーなところがあって、ローツェはいつも苦笑するばかりだ。
 串焼きをたいらげた後、ふたりで祭りを見て回り、寺院でかけてもらった花の環を首から下げて、機関の施設まで戻ってきた。
「部屋で少し休みましょう。ヌプツェは祭りで裏方の手伝いをしているのですが、彼からは部屋は自由に使っていいと言われているので」
「ヌプツェにはいつも世話をかけてしまうね。でも、お言葉にあまえようかな」
 部屋に戻り、紅茶の用意をする。キッチンにはお茶菓子の箱が置かれていて、ヌプツェの心遣いにローツェは頭が下がる思いだった。裏方にまわったのも、エベレストと出かけるローツェを気遣ったのかもしれない。
 淹れたばかりの紅茶を口にしながら、しばし静かな時が流れた。その静けさに、ローツェはわずかに緊張した。
「ローツェ。聞いてくれるかい」
 エベレストがかしこまったように切り出す。
「……私は、これからはきみに、はっきりと伝えるようにするよ。いつも言葉足らずになってしまっていたから。きみならわかってくれると思いあがっていたんだ」
 ローツェは、ごくりとつばを飲み込んだ。彼はこれから、何を伝えようというのだろう。これまでのエベレストの言動が、頭の中に走馬灯のように流れていく。
「だから……だから、ちゃんと言う。ローツェ。私がきみの深くに触れたいと言ったのは、いわばそのままの意味なんだ」
 エベレストは神妙な顔で、ローツェの手を握った。
「私と、セックスしてくれないかい」
 言っちゃったー!と言わんばかりにエベレストは顔を覆った。そのダイレクトな響きに自分でダメージを受けたようだ。ローツェの反応が怖かったが、エベレストは覆った手のひらの隙間からこわごわと彼を見た。
 しかし、ローツェはぽかんとしていた。
「……せっくす、って、なんですか」
「え?」
 ローツェは本当に知らないようだった。顎に手を当てて、これまでの講義の内容を思い出しても、そのような単語は聞いたことがなかった。
「たぶん、それはまだ習っていませんね」
 うそ、とエベレストにショックを受けた顔をされても、ローツェには思い当たる節がなかった。
「エベレスト。幼年期の彼になんてこと言うんだい」
 突然聞こえた声に、ローツェよりもエベレストが飛び上がらんばかりに驚いた。失礼するよ、と部屋に入ってきたのは、色黒の肌のすらりとした体躯の山界だった。青みがかった薄墨色の髪をひとつに結って、肩から胸にかけて流している。穏やかに目を閉じているが、そのままでもちゃんと見えているらしいことがわかってローツェは驚いた。
「はじめまして、ローツェ。僕はマカルーという。同じ八千メートル峰のよしみで、以後覚えておいてもらえると嬉しい」
「あなたがマカルー、ですか」
 突然現れた理由がわからずローツェは戸惑ったが、マカルーの知的な物腰には好感が持てた。世界第五位の肩書を持ち、以前からエベレストの部下だと聞いていたが、ローツェは会ったことがなかったのだ。握手をするとマカルーはやわらかく微笑んだ。
 慌てたのはエベレストだった。
「き、聞いていたのかい」
「ああ。きみが私に仕事を押し付けたのはまあいいとするけど、どうしてもきみの決裁が必要な案件があったから聞こうと思ったんだ。そうしたら、部屋からあられもない話が聞こえてくるじゃないか」
 ローツェは何も知らないようだったからそれ以上余計なことを吹き込まないように、慌てて部屋に入ったのだという。
「ローツェはまだ教育を受け始めて一年だ。その知識を与える講義は三年目からと決まっているんだよ。私たち山界には、とりたててすぐに必要になるものじゃないからね」
 教育機関について、最終的な決裁をしたのはきみだよ、とマカルーはため息をつく。
「で、でも、聞いたことくらいあるかと思って……」
「機関は五年間。その間にできる限りの知識を得てもらわないといけない。そのために勉学に集中できるように、必要最低限をのぞいて外界から切り離しているんだ。とくに最初の二年はね」
 エベレストはどんどん縮こまっていく。
「私たち黎明期の山界と違って、最初から知識を持っているわけではないんだよ。体系立ててきちんと教えていかないといけないんだ」
 黎明期の山界とは、エベレストの人間化からおおよそ十年の間に人間化した、一部の特別な山界のことをいう。エベレストをはじめ、その山界たちは人間化したときから意識があり、相応の知識を持っていたとされる。マカルーもその一人で、そのためエベレストと共に山界を牽引してきたのだ。
 マカルーの話を聞いて、ローツェはだんだんと飲み込めてきた。エベレストはどうやら、何か早まったらしい。
「きみは軽率すぎる。今ローツェを混乱させてどうするんだい」
 マカルーに穏やかな、しかし厳しい口調で説教されて、エベレストは立つ瀬がない。
「気持ちはわからなくもない。そういう思いを抱くこともあるよ。けどね、時期というものがある。いくらきみがローツェを愛していても――」
 あ、とマカルーは口を押えた。しかし、その動作はどこかわざとらしさがあった。エベレストも、あ、と何かに気づいたように固まってしまった。
「まあそういうことだから、時期を選ぶことだね。あと段階。きみはローツェのことになるとなんでもすっ飛ばしてしまうんだから」
 困ったものだよ、と大仰に肩をすくめて見せた。そして、ああそうだ用事を済まさないと、と言うと、呆然としているエベレストに携帯電話を握らせて、ここにかけるように、と部屋から押し出してしまった。
「さて、と」
 ぱん、とかるく手を打って、ローツェに向き直った。
「驚いただろう、よくわからないことを言われて。でもね、今のきみに必要なのはそれじゃなくて、人間生活に必要な知識を頭に入れることだよ。さっきエベレストが言っていたことは、今はまだ必要じゃないから」
「……わ、わかりました。とにかく、今受けている講義に、集中します」
 マカルーはうんと頷いて、けどね、と続けた。
「エベレストにはどうしようもないところがあるけど、きみのことは本気で想ってるんだ。それは端から見ていても、痛いくらいに伝わるよ。だから、もしその時がきて、きみがそれでも良いと思うなら、受け止めてあげてほしいな」
 あの子のためにも、と、小さくつぶやいたが、ローツェは聞き取れなかった。聞き返そうとしたとき、こんこん、と控えめにノックする音がした。エベレストが電話を終えたようだ。
「入っていいよ。僕はこれで失礼するから」
 じゃあまたね、とローツェに手を振ると、一仕事終えたという風に颯爽とマカルーは去っていった。
「……」
 二人きりに戻ったのはいいものの、その痛いほどの静寂にエベレストは狼狽した。
「ろ、ローツェ、ごめん。あの、ああ、私は本当に、だめだなあ」
 あああと唸り、後悔に苛まれているエベレストは、本当に参っているようだった。この際、ずっと疑問だったことを聞いてみようと思った。
「あなたはどうしてそんなに、私に構ってくれるんですか」
 動揺している今なら、何か本音を聞き出せるかもしれないという打算もあった。マカルーが言いかけたことも気になる。
 その打算に、エベレストは見事にのってくれた。
「……それを先に言わなきゃならなかったのに、飛ばしてしまっていたんだ。マカルーが言いかけて気づくなんて。私はどうしてこう、早まってしまうのだろう」
 エベレストは自嘲するように苦笑してから、ローツェに向き直った。
「……私は、きみのことが好きなんだ。きみを想わない日はない。朝も昼も夜も、きみことばかり考えてる」
「きみの声とか笑顔とか、嬉しそうな顔、怒った顔も、どんなきみでも好きなんだ」
「今のきみにはまだ言えないけど、その……そういう気持ちになってしまうときもあって、それで、さっきはあんなことを言ってしまったんだけど、それは、きみのことが好きで好きで、どうしようもなくて……」
 好き、という言葉に違和感を感じたようで、エベレストはううん、と唸る。
「好き、じゃうまく表せないな。これじゃ足りない……」
 動揺をふくんでいた声はもう落ち着いてきている。ひとつ深呼吸をすると、エベレストは意を決したようにローツェを見すえた。
「愛してるんだ。きみのこと」
 真っ直ぐで真剣な眼差しに射られて、ローツェは動けない。しばらく目線を外せずにいると、エベレストはその眼差しをゆるめた。
「マカルーに先に言われてしまったけどね。私が情けなくて、放っておけなかったんだろう。何より先に伝えなきゃならなかったのに」
 私はだめだなあ、とエベレストは苦笑しながらまたうなだれてしまった。彼はローツェのことになるととたんにだめになってしまうようだ。代表として立つときは、いつも人を引き付ける魅力にあふれているというのに。
 きっとこれが、エベレストの素顔なのだ。それを見せられるくらいには、自分は信頼されているし、愛されているのだろう。
 今度はローツェが真っ直ぐにエベレストを見据える。
「……愛は、習いました」
今日一日で、様々な感情をいちどきに感じた。講義なんかよりもずっと、なまなましいものだった。
「私も今日、あなたと同じように感じました。いいえ、これまでもきっとそうだったんです。いつもあなたを想っていました。朝も、昼も夜も。サガルマータのことしか考えてないと言われることもあったくらいです」
そっと、ローツェはエベレストの手をとった。緊張しているのか、彼の手は冷たかった。それを温めるように、優しくさすりながら続ける。
「あなたを想うことが苦しい時もありましたし、あなたの真意がわからなくて混乱したこともありました」
 それでも、とローツェは顔を上げる。
「それでも私は、あなたと共にいたい。一緒にいたいんです」
 エベレストは呆けたように聞いている。その間抜けな顔がたまらなく愛おしい。
「……私もあなたのことを、愛している、と思います」
 呆けた顔から、みるみる瞳に輝きが灯っていくのがわかった。泣きださんばかりに破顔していく様は、まるで大きな向日葵が咲いていくのを見るようだった。
「ほ、ほんとかい」
 ローツェは微笑みながら、こくりと頷いた。そんなエベレストを見ていると、マカルーが彼に手を貸したくなる気持ちもわかる気がした。
 私も、この人を守りたい。
「ひとつ、お願いがあります。私を、あなたのそばに置いてくれませんか」
 ずっと考えていたことだった。今日マカルーに会って、その思いは強くなった。
「あなたのそばで仕事がしたいんです。そして、あなたを支えたい。あなたと同じものを見たい」
 マカルーはエベレストと共に仕事をしている。山界の発展という、同じ方向を見据えていた二人のやりとりが、とてもうらやましく思えた。先日観た、ぶすっとしたデナリの支部長就任の報ですら、ローツェにとってはうらやましいものだった。
 そこにいるのが自分だったらいいのに。彼を支える者のひとりになれたら、どんなにいいか。
「まだ幼年期の私では、何もお役に立てないと思います。だから、あと四年待ってくれませんか。それまでに、必要な知識をしっかりと学びます」
 お願いします、とローツェは頭を下げた。エベレストは慌ててそれを止めると、はにかみながら言った。
「願ってもないことだよ。きみがそれを望んでくれたらどんなにいいだろうとずっと思っていたんだ。でもきみの望む道を進んでほしかったから、無理強いはしないつもりだった」
「なにを言うんですか。私が人間化したときから通って、自分以外ありえないようにしてきたくせに」
 ローツェがエベレスト以外見えないようにしてきたのは、彼自身だ。からかうようにそれを言うとエベレストは青くなったが、ローツェは気にしない。
「でもあなたがこうして愛してくれていたから、私は道を見つけることができたんです。それがたとえ、意識に刷り込まれたものであったとしても。その道を選んだのは、私ですから」
 だから待っていてほしい、とローツェは訴えた。
「待つよ。私にとって、四年待つことくらいなんてことない。きっと待ち遠しくて長く感じるだろうけど、それでも待ってるから」
 照れたように笑うエベレストは、心から嬉しそうに見えた。ローツェは、あと、と続ける。
「あなたがしたいと言ったセックスも、きちんと学んでおきますので」
 そのひとことに、エベレストは盛大にむせた。その意味を知らない無垢なローツェの真顔がやけにまぶしく見える。その意味を知ったとき、ローツェはなんと言うだろう。なんてことを、と顔を真っ赤にして睨んでくるだろうか。それとも軽蔑されてしまうかな、とエベレストは内心苦笑する。
「うん。知った上できみが良いと思うなら、どうか、受け入れてくれると嬉しい」
 未来はわからない。それは、エベレストにとってはくすぐったいような快感だった。
エベレストはおずおずと腕をひろげる。
「抱きしめてもいいかい?今すごく、きみを近くに感じたくて」
 ローツェはエベレストの腕に抱かれて、その温かさにとろけそうになった。
きちんと言葉で伝えてくれることが、心が通じ合えたことが嬉しくて、エベレストの広くて温かい胸に、ローツェは頬をすりよせた。



 夜になり、祭りは最高潮を迎えていた。神々に捧げられた大きな炎が煌々と闇に燃え盛り、電気の少ない山間の街を照らす。
 ヌプツェはその炎をながめながら、ローツェたちのことを心配していた。ぽんと肩に手を置かれて振り向くと、マカルーがやあ、と微笑んだ。
「大丈夫だよ。きっとうまくいく」
 二人とも、エベレストとローツェを心から応援していた。ヌプツェはそれを聞いて、そうだね、と少しほっとしたようだった。
「でも、きみはそれでよかったのかい?ローツェは――」
「いいんですよ。彼はぼくの半身だけど、エベレストの半身でもあるんだから」
 ローツェには幸せになってほしいから。
 それだけつぶやくと、ヌプツェはまた炎に視線を戻した。その顔にはもう不安の色はなく、安堵と諦観のような微笑みがあるだけだった。



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 講義が終わるベルが鳴った。同じ講義を受けていた同期の山界たちは、どこか熱に浮かされたような足取りで部屋を出ていく。それを見るともなしにぼんやりとしているローツェは、講義の内容で頭がいっぱいになっていた。
「そういう……こと」
 うすうすわかってきてはいたが、いざ知識として与えられると、それが妙な実感を持って迫って来た。
 あの祭りの日から三年が経った。エベレストに請われ、マカルーに止められたあの行為を学ぶ日が、ついに来たのだった。ただ、それとなくその行為についての話はどこからか聞こえてきていたので、まったくの初耳というわけではなかったのだが。
 それでも、自分はこれをエベレストに約束したのか、とローツェは頭を抱えることになってしまったのだった。
 背中をつん、とつつかれて振り向くと、後ろに座っていたヌプツェが微笑みを湛えてこちらを見ていた。
「できそう?」
 エベレストとの約束を、ヌプツェに話しておいたのを後悔した。あの祭りの日にエベレストと結ばれたこと、そういう約束をしたということを、何も知らないローツェはヌプツェに話してしまっていたのだ。
そのからかうような微笑みにむかむかして、ローツェは顔をひきつらせた。
「約束したんですから。二言はありません」
「男前だなあ、ローツェは」
 エベレストも喜ぶよ、とヌプツェはローツェと同じ金色の瞳を細めた。

 今回の講義は、自分たちの体や性について学ぶものだった。山界には性別はあるが、そもそも山という無機物が本体であること、子孫を残す能力はないことから、性差をあまり気にしない傾向がある。
 子孫を残す能力はない、というものの、機能自体はある。つまり、性行為をすることはできるが子孫を残す因子は持たない、というのが、この人間体の特徴でもあった。人間とうりふたつの山界たちだが、その点は大きく異なった種族ということになる。
そのほか、寿命は人間よりはるかに長く、山の時間で生きていることが仮説として立てられていた。
 そういった自分たちの体の基礎知識をあらためて学んだ上で、講義の中心は、性行為に及ぶ際の方法などを学ぶことにあった。
 ローツェはヌプツェと一緒に講堂を出た。熱っぽさを持った体が廊下の冷たい空気に冷やされて、頭が少しすっきりしてきた。
「これ作ったの、マカルーなんだってね」
 ヌプツェが講義の資料をひらひらと振る。数十ページにわたる冊子になっており、中は手書き文字で講義の内容が図などと共にびっしりと書かれていた。
「マカルーは、こういうことにあまり良い印象を持っていないと思っていたんですが。でもこれを見ると……」
「なんだか、楽しそうだよね」
 冊子はきちんと順序だてて作られており、聡明なマカルーらしさが随所にあらわれていた。しかし、手書きということや、ところどころ妙な熱量を感じられる部分もあり、本人が多大な興味を持って作っていたのではないかという気がしないでもないのだ。
「異性、同性同士の方法とか、どれもちょっとマニアックな感じがする。これとかほら」
「ああもう、ここで広げるのはやめてくれませんか」
 冊子のイラストもマカルーが描いたものらしいのだが、ほっこりとしたタッチのイラストなのに、その内容はかなりきわどい体位を描いたものだった。ローツェに見せつけるように目の前に広げてみせると、彼は顔を赤くして咄嗟に目をそらしてしまった。
「そんなのでできるのかな。実物はもっと……」
 ヌプツェがにやりと笑うと、ローツェののどがごくりと鳴った。その『実物』を想像してしまったようだ。


 しんとした秋の夜。
透明に輝く満月の光が、名立たる銀嶺の頂きを明るく照らし出していた。機関の施設の外はその標高の高さで、平地よりも気温ははるかに低い。といっても、ローツェはまだ平地に行ったことがなく、秋の気温はこういうものだと思っている。
 窓際にある机の上には、やわらかい白の便箋が書きかけのまま置かれていた。そばにはエベレストからの手紙もあり、彼が行った様々な場所の写真もその上に重ねてあった。
「(どうしよう)」 
 机の横にあるベッドに寝転んで、ローツェは部屋の天井を見上げていた。エベレストの手紙はいつものようにローツェを楽しませる内容だったし、それ自体には何の不満もなく、返事も書きたいと思う。けれど、講義を受けたことを書くかどうか、迷っているのだった。
「ローツェ、ぼくはもう寝るけど、どうする?」
 ヌプツェが部屋の電気のスイッチに手をかけながら、ちらりとローツェの机に目線をやった。
「ああ、すみません。私も寝ます」
 ぱちり、とスイッチが切れて、部屋はカーテンを透かした月明りでうすぼんやりと明るくなった。それぞれのベッドに入り、おやすみ、と声をかけあう。
 しばらくして、すう、というヌプツェの寝息が聞こえ始めた。耳をすませてそれを確かめると、ベッドの隅からそっとマカルーの教本を取り出した。
 暗さに目が慣れてくると、月明りで十分読むことができた。音を立てないようにページをめくり、前回まで読んだ箇所をひらく。
『相手に気持ちよくなってもらうには 前戯編』
 男女別に示され、マカルーの手書きイラストで丁寧に説明されている。この項目だけで数ページあり、色んな方法が事細かに描かれていた。
「(ここが……気持ちいい、のか)」
 絵に合わせてぎこちなく動作をまねてみる。見たこともないエベレストのものを想像するだけでだんだん体が熱くなってきて、ローツェは毛布にくるまってため息をついた。
 体の奥がじくじくと熱くなっていく。こうして夜にこっそりと勉強を続けているのだが、すればするほど体に熱が溜まってきて、もどかしい。
 熱を持ってしまった自分のものが、次第に硬くなっていく。想像するほど硬度を増していくそれに、手を伸ばした。
「、あ……」
 寝巻きの中で存在感をあらわしたそれを、ゆっくりとさする。下着の布越しに、先端がじわりと濡れていく感覚があった。
「(触りたい)」
 我慢できず、下着の中に手を入れて自らのそれをつかむ。輪にした指を上下に動かすと、背中にぞくりと快感がはしった。
「っ、」
 息が上がっていく。自慰を覚えたての体には刺激が強くて、あっという間に達してしまった。手の中にすべて吐き出すと、あんなにもどかしかった熱もおさまっていった。
肩で息をしながら、エベレストのことを想った。エベレストは三年前のあの時、すでにこの熱を知っていて、その相手にローツェを求めた。三年間、いやもっと長い間、エベレストはこの熱に耐えてきたのだと、ローツェはふと思い至った。
 今頃彼はどうしているのだろう。同じように夜の中にいて、同じように、ベッドでこのもどかしさに耐えているのだろうか。
「(はやく、会いたい)」
 そっとベッドから手を伸ばして、エベレストからの手紙を手に取る。胸に押し抱くようにしていると、ふわりと、彼の香りがしたような気がした。自分の体温で温められたからか、手紙はわずかに香り立っている。その香りに心がゆるんで、ローツェはそのまま眠りに落ちていった。


「エベレスト。ローツェから手紙が来てるよ」
 人間との会談のための資料を読んでいたエベレストは、マカルーの一言に目を輝かせた。山界代表の正装に身を包み、耳飾りが揺れてきらきらと光を散らしている。それまで堅い表情で資料を読んでいたのに、ぱっと相好をくずし、ありがとう、と手紙を受け取った。資料を横に押しやり、早速手紙をひらく。
「……え」
 手紙を読んだエベレストは、固まってしまった。
「どうかした?」
 いぶかしんだマカルーがエベレストの顔をのぞきこむと、彼は頬を紅潮させて、熱に浮かされたようにつぶやいた。
「ローツェが、してくれるって」
 じわじわとその喜びがエベレストの体中に広がっていくのが、マカルーの目に見えるようだった。弾かれるように立ち上がると、やったー!と快哉を叫び、人間の子供のように跳ね回らんばかりの喜びようだ。してくれる、の意味を察して、マカルーはぽんと手を叩いた。
「あの講義を受けたということかな。あれからもう三年経つのか」
 早いものだねえ、としみじみする。エベレストとローツェは三年の間に何度も会っていたが、彼らはきちんとその約束を守っていた。ローツェのことになるとフライング気味のエベレストだが、そういうことはちゃんと『待て』ができるらしい。
「よし。この会談を早くまとめて、ローツェに会いに行かないと」
 俄然やる気を出したエベレストは、それまで以上に集中して資料に向き合い始めた。急に静かになったエベレストを横目に、マカルーは手紙を手に取る。エベレストが書き送った内容への返事の後、微妙に揺れる筆跡で、最後に付け足すように書かれていた。

『講義、受けました。三年前の約束を果たします』

 まるで果たし状のような文言に、決意に満ちたローツェの顔が浮かぶ。
「真面目だなあ」
 どちらも、と、集中しているエベレストの後頭部を見やった。正直言うと、エベレストが耐えられなくなってローツェを襲ってしまうかと思っていたが、杞憂だったようだ。
「マカルー。この項目、もっと内容詰められないかい。向こうの決め手に欠けるだろうし、ここで時間はかけたくない」
 さっきまでのはしゃぎようが嘘のように静まっているが、その瞳には妙なやる気が満ち溢れている。
 微笑ましく思いながら、仰せのままに、とマカルーは頭を垂れた。


 ローツェはがちがちに緊張していた。
 今夜は、いわゆる初夜。エベレストと初めて繋がるのだと思うと、あれこれと想像してしまい、そわそわしてずっと右往左往している。
 そんなローツェの様子を見て、ヌプツェはため息をついた。
「落ち着きなよ。そんなんじゃ、入るものも入らないよ」
「う……」
 入るもの、という表現が生々しくて、ついヌプツェをにらんでしまう。
 エベレストとローツェはお忍びで交際しているのもあって、色んな人の協力を得て会うことができている。そうなると、自然とその度合いも知られてしまうものだ。
 今夜、ついに初夜を迎えるということを、ヌプツェ以外きっとマカルーも知っているだろう。エベレストが初めて一晩泊る、ということを聞くと、機関の職員たちも察するだろうし、なんとなくまあ、いたたまれない気持ちにもなるのだった。
「大丈夫だよ。エベレストがいいようにしてくれる」
 そう言いながら寝具の支度までしてくれるヌプツェに、感謝とも恨めしさともつかない目線を送ってしまう。
 これではまるで、王の夜伽を待つ姫のようだ。それをヌプツェにこぼすと、あながち間違いでもないね、と言うので、ローツェは頭を抱えた。
「じゃ、ぼくはアマダブラムのところに泊まるから。ごゆっくり」
 部屋を綺麗に片付けたヌプツェは、一泊分の荷物を詰めたリュックを背負い、軽い足取りで部屋を去っていった。

 こんこん、と、部屋がノックされる音がして、ローツェは飛び上がった。
 頭の中に教本の内容がぐるぐるとまわり、三角座りの姿勢で待つ以外、何もできなかったのだ。
 どきどきしながらドアをそっと開けると、二ヵ月ぶりのエベレストの笑顔が見えた。気恥ずかしそうにはにかんでいるのを見て、ローツェは少し肩の力が抜けた気がした。
「会いたかった」
 エベレストはそれだけ言うと、ローツェをぎゅっと抱き締めた。まだ部屋に入っていないので、廊下から誰かに見られていないかと慌てたが、エベレストは気にしなかった。
「遅くなって、ごめんよ」
「いいから。はやく、入ってください」
 ローツェに促されて足を踏み入れると、部屋はこの上なくきちんと整えられていて、ベッドにも皺ひとつない。生活感が無くなるほど整えられた部屋に、エベレストは目をまるくしてしまった。
「これ、ローツェが?」
「ち、違います。ヌプツェが、用意、してくれました」
 情けなくて、声がしぼんでしまった。自分は緊張してそれどころではなく、ヌプツェが何から何まで用意してくれたのだ。ローツェは何もしなくていいから、と、まさに姫扱いだった。
「私は何もできなくて……何をしていいか、何も手に着かなくて」
「私と同じだね」
 え、と顔を上げると、エベレストは情けなさそうに苦笑していた。
「私もさ、昨日から何も手に着かなくて。きみのことばかり考えてしまうから、マカルーにたくさん迷惑をかけてしまったよ」
「そう、だったんですか」
 エベレストも緊張しているのだ。二十年も先に生きて、代表までこなしている彼でも、自分との初夜というだけでこんなにもあたふたしてしまう。
 そういえば、と、ふと疑問が浮かんだ。
「……あの、サガルマータは、その」
 咄嗟に口にしてしまったが、つい言い淀んでしまう。聞いてもいいものかどうか迷ったが、エベレストは首をかしげて言葉の続きを待っていた。
「……したこと、あるんですか」
 顔も耳も真っ赤になっている自覚はあった。聞いたはいいものの、もしそうだと言われたら、どうしよう。ローツェは内心、聞かなければよかったと後悔した。
 だって、人間化してすでに二十年も生きているのだ。そういう経験がひとつふたつ、あってもおかしくないのではないか。もしそうだったら、嫉妬のような激しい感情に身を焼かれる気がした。
 エベレストはぽかんとしていたが、ああ、と合点がいったようで、めずらしくすこし意地悪な微笑みで答えた。
「どうだと思う?」
 その返答に、ローツェはなんとなくかちんときた。普段は素直で可愛いところもあるのに、どうしてこう、いらないときに自分をからかうようなことを言うのだろう。こちらは必死になって聞いているのに。
 冷めた目になって、ローツェはつとめて冷たく言うことにした。
「そうですね。そこらへんにたくさん愛人がいるんでしょうね」
「へっ」
 思ってもみなかった反応だったようで、エベレストはあっけにとられた顔をした。
「あなたは見目もいいですし、なにより、あの〝エベレスト〟なんですから。山界からも人間からも言い寄られているんじゃないですか。ああそうか、私との関係もそのうちのひとつってことでしょうね」
 以前も同じようなやりとりをしていたなと、ふと思い出した。あのときはエベレストが情けなく謝ってきて――。
「ローツェ」
 低い声に、一瞬息が止まる。次の瞬間、背中に床の硬さを感じた。押し倒されたと気づいたときには、エベレストがローツェの上に覆いかぶさっていた。部屋の電灯を背に受けて、ローツェを見下ろしている。
 いつもはあたたかな光を湛えているその瞳が、今は昏く妙な熱を持っているように見えて、思わず心臓が跳ねた。
「私の言い方がまずかったのは、謝るよ」
 手首を床に押さえつけられていて、身動きがとれない。こころなしか、握る力が強められた。
「けど、そんな可愛い顔されたら、困ってしまう」
「え」
驚くのは、今度はローツェの番だった。自分は彼をけなしたはずでは?と、頭に疑問符がいくつも浮かぶ。可愛い顔なんかした覚えはないし、すくなくとも冷たい目をしていたはずだ。なのに、エベレストのこの興奮気味な表情はなんなのだろう。
「きみの冷たい目線も、態度も。ああ……可愛いんだから、困るなあ」
「ど、どういう……」
 思わず声がうわずってしまう。
「どんなきみでも愛おしくて、たまらないんだよ」
 すこし前、きみはそれでいいんだよ、と囁かれたことを思い出した。エベレストに冷たくしてしまう自分を責めていたときだ。彼は、きみは好きに生きればそれでいい、とも言っていた。素直になれないローツェの気持ちをわかっていて言っているのだと思っていたが。
「……あれは、そういうことだったんですか」
 当たらずとも遠からずな解釈をしてしまっていたようだ。それにしても、つれなくされても嬉しいなんて、あまりにも悪食すぎないか。
 ローツェがぽつりとこぼしたつぶやきを聞いていたのかいないのか、エベレストは変に興奮して、にこにこしている。押し倒されていることと、そのにやけ面が妙に腹立たしくなって、膝で思いっきり尻を蹴り上げてやった。
「変態、ですか!」
 う、というくぐもった声とともに、エベレストがローツェの上に落ちてきた。尻かと思ったら股間にあたったらしく、悶絶してうめいている。
「ちょっと、重い!どいてください!」
「む、むり……動けな……」
 目を白黒させているがどこか嬉しそうにも見えるので、もう一発お見舞いしてやろうかと思ったが、さすがにかわいそうなのでやめた。そこが痛いのはローツェにだってわかるからだ。
 自分たちが何をしようとしていたのか、すっかり忘れてしまっていた。エベレストがうめいているのも無性に可笑しくなってきて、ローツェは思わず、声をあげて笑っていた。


「さすがに、そういう気分にはなれませんねえ」
 ヌプツェがキッチンに置いて行ってくれた茶菓子をつまみながら、ふたりで紅茶を飲んでいた。エベレストはまだ股間が痛むのか、やや涙目で菓子をもぐもぐ頬張っている。
「ごめんよ。こんなつもりじゃなかったのに……」
「いえ。こちらこそすみません。まさか股間にあたるなんて」
 エベレストの股間をちらりと見て、そういえば、と思い出す。
「結局どうなんですか。経験あるんですか、ないんですか」
 もうどんな結果でもいいと思った。経験あろうがなかろうが、この変態は自分のどんな姿でも愛しているとのたまっているのだ。こんなのに愛される方が憐れというものだと開き直る。しかしエベレストは、もうからかったりしてこなかった。情けなくしょげた顔をして、ローツェを見た。
「ないよ。一度も」
「二十年も生きているのに?」
「だって、初めてはきみがいいって決めていたんだもの」
 あっさりと告げられて、拍子抜けしてしまう。
「きみを抱いても、抱かれてもいいと思ってた。どちらにしても、初めては、きみとって決めてたんだ」
 さらりと恐ろしいことを言ってのけた気がして、ローツェはぎょっとした。自分は抱かれるつもりだったし、そもそも、自分が抱く側だとは考えたこともなかった。
 エベレストは、それほどまでにローツェにこだわっていたのだ。言い寄られたとしても、にべもなく断ってきたのだろう。なんだかいじらしく思えてくる。
「変なところで頑固ですねえ」
 はあ、とため息をつく。自分から言い出したとはいえ、童貞問答のせいで初夜に挑む前から失敗しているので、いまさらいい雰囲気になれるとは思えなかった。けど、このまま終わらせるのは、もやもやする。
「……一緒に寝ませんか」
 エベレストは、その言葉にはっと顔を上げた。呆れられたかと思った、という顔をしている。あの性癖を隠すつもりはなかったそうだが、ローツェに変態と呼ばれたことがややこたえているらしい。
ローツェはそんな彼の手に、自分の手を重ねた。いつもは温かいのに、今はひんやりしている。エベレストは落ち込むと手が冷えるようだ。
「こんなことになりましたが、最初から私は緊張しきっていましたし、どのみちうまくいかなかったと思います。だから、まずはあなたと一緒に寝るところからでも、いいですか」
「ローツェ……!」
 もちろんだよ、と、エベレストはローツェをきつく抱き締めた。それから、ありがとう、と何度も何度も繰り返す。
冷たかったその手は、じんわりと温かくなっていった。


 長身で体格のいい二人で寝るには、部屋にあるシングルベッドでは狭すぎた。けど、今までにないほどエベレストを近くに感じることができた。
 ただ、近いというよりももはや密着していると表現したほうがいいのだが。
「狭くないかい」
「まあかなり……でも、温かいです」
 エベレストは若干ベッドからはみだしている。ローツェにちゃんと毛布がかかるように気を配ってくれていた。
「あなたもちゃんと毛布被ってください。体冷えますよ」
 エベレストにもっとこちらに来るように言って、毛布をかけてやる。ぎゅっと抱き締められているので、毛布がなくても温かいのだ。
 彼の胸から、背中にまわされた腕から、体温が伝わってくる。顔もとても近くて、金色の瞳の中がよく見えた。気恥ずかしくて、ローツェはつい顔をそらしてしまう。しかし、エベレストがローツェのほそい顎を優しくつかんで、向き直らせようとする。
「逃げないで」
 エベレストの低い声は色んな意味で心臓に悪いが、甘い声もまたそうだ。耳元で囁かれるとてきめんで、顔から火が出そうになる。エベレストの胸を押して身じろぎすると、優しく苦笑された。
「やっぱり先は長いね。でも、それでいいんだ。きみがしたいと思う時まで、待つよ」
 エベレストは、あの手紙のことを口にした。
「……無理してるかなって、思ってたから」
 飛び上がるほど喜んだが、あの文面が気になっていたという。もしかしたら、経験あるかどうかを聞いたときに茶化してきたのは、ローツェを落ち着かせるためだったのかもしれない。そう思うと、ローツェはすこしばつが悪そうに目線を伏せた。
あの夜の後いきおいで書き送ってしまい、今日まで内心後悔してもいたのだ。
「すみません……本当は、心の準備ができていないまま送ってしまったんです。でも、あなたも同じかと思うと、いてもたってもいられなくて」
「同じ、って?」
 あの夜のことを思い出す。エベレストを想って自慰をしてしまった夜だ。
「……あなたも、寂しいと思う夜があるのかなと、思って」
 さすがに自慰を告白するのは羞恥が勝つので、色々と伏せた。もしかしたら、なんだかんだで聡いエベレストは察してしまっているかもしれないが。
「うん、寂しいよ。ひとりでしちゃうくらいにはね」
 しかしあっけらかんと自慰を告白されて、逆に恥ずかしくて顔が赤くなってしまった。エベレストは、えへへ、とはにかんで頭をかいている。
「ローツェのことを思うとさ、体が勝手に反応しちゃうんだ。人間の体って、ままならないよねえ」
「……ええ。ほんとうに」
 エベレストも同じだったのだと思うと、ローツェはすこしほっとした。その安心した顔を、エベレストは穏やかなまなざしで見つめていた。
「ローツェ。ここを出たら、一緒に住まないかい」
「え」
 教育機関を出たら、ということだろう。成人認定を受けて教育機関を出たら、ただ漠然とひとりで住むのだと思っていた。この先一緒に仕事はしても、今のように秘密の関係のままでいるのだと思っていた。一緒に住むとは、考えたことも無かったのだ。
 エベレストは朗らかに続ける。
「きみがいいと言ってくれるなら、私はそうしたい。きみと、すこしでもたくさん一緒にいたいから。それにもう、隠す必要もないからね」
 代表と教育生という立場から、みんなから隠れるように内緒で付き合ってきた。それはきっと、成人していないローツェのためでもあったのだろう。でもこれからは、誰に隠すこともなく、一緒にいることができるのだという。
 そう思うと、ローツェは胸の内にあたたかいものを感じた。
「……もう、こっそり会わなくてもいいんですね」
「うん。誰に見られたって平気だよ。それにもし何かあったら、私が必ず守るから」
 エベレストは、ローツェの髪をゆっくりと撫でた。
「一緒に、いたいです。私も。あなたと一緒に」
 その胸は、あたたかかった。ひろい背中に腕をまわして、ローツェはエベレストを抱きしめ返した。
「それに、もしあなたに何かあったら、私もあなたを守ります。これまで守られてばかりだったんですから、私にもできることをしたい」
「いいんだよ。私はきみのためにこうして代表をしているようなものだから。きみが幸せに生きていてくれれば、私にはそれ以上のものはないんだ」
 お互い、譲る気はなさそうだ。このままでは言い合いになりそうで、ローツェは苦笑した。
「……私たち、頑固ですよね」
「そうだねえ」
 ふふ、と笑い合う。お互い譲らなかった結果、ふたりとも毛布から体が若干はみでている。けれどきつく抱き締め合っているから、ちっとも寒くはなかった。
「迎えに行くよ。きみがここを出る日に」
「ええ。待ってます」
夜も更けて、いよいよ部屋は冷えていく。それでも、こうしていれば温かいのなら、何の問題もない。
 こんなに穏やかな気分は初めてだった。きっと、エベレストと離れ離れになっていることが不安だったのかもしれない。なにせ、山体を共有している仲なのだ。切っても切り離せない繋がりが、体の奥深くにあるのだろう。
エベレストの胸の中で、ローツェはゆっくりと目を閉じた。



...2章へ続く